1. 肥沃な大地
開拓当時の十勝の土壌は、ほとんどが生産性の低い火山灰性土壌でした。そのため、開拓以来、先人の努力よって土壌の肥沃度の向上を行い、農業の生産性を高めてきました。また、十勝東北部の台地・丘陵地には農業生産に不向きな湿地が分布しており、山から土を運んできて埋め立てる客土や、排水路の設置、氾濫を防ぐための河川の直線化など、土地改良事業も進められました。
このように十勝の土壌は、140年をかけて、十勝農業を支える大きな原動力となっており、今も次代に向けた土壌機能を増進させる努力が続けられています。
2. 豊富な水源
十勝平野を流れる河川は、大雪山系からの「十勝川」、日高山脈からの「札内川」、石狩山地からの「音更川」、池北峠からの「利別川」など、数多くの支流を集め、流域の面積は9,010㎢におよびます。また、帯広市域を貫流する札内川をはじめ、歴舟川や然別川など、清流日本一に選ばれた河川がいくつかあることが特色の一つです。
河川名 | 流路延長(㎞) | 流域面積(㎢) |
---|---|---|
十勝川 | 156.0 | 9,010 |
札内川 | 82.0 | 725 |
利別川 | 150.0 | 2,860 |
音更川 | 94.0 | 740 |
浦幌川 | 90.2 | 483 |
然別川 | 66.7 | 648 |
猿別川 | 60.7 | 449 |
戸蔦別川 | 43.6 | 304 |
帯広川 | 43.5 | 186 |
途別川 | 39.4 | 122 |
士幌川 | 39.6 | 298 |
(気象庁ホームページより)
3. 国内有数の日照量
十勝は、「十勝晴れ(とかちばれ)」という言葉があるように、年間を通じて晴天の日が多く、特に秋から冬にかけては晴天が続きます。日照時間は、年間約2,000時間を越え、道内の都市である札幌や全国平均を上回ります。
また、降雪については、札幌や旭川などの日本海側とは異なり、冬季も降雪量・降雪日とも比較的少なく、除雪が必要となる1日に15〜30センチ程度の降雪量となる日が、冬期を通じて3〜10日ある程度です。
帯広市 | 札幌市 | |
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平成29年 | 2181.9 | 1819.9 |
平成30年 | 1986.9 | 1741.6 |
令和元年 | 2152.6 | 1987.7 |
令和2年 | 2011.7 | 1764.3 |
令和3年 | 2085.0 | 2049.0 |
令和4年 | 2088.7 | 1847.8 |
令和5年 | 2165.3 | 1889.6 |
(気象庁ホームページより)
4. 寒暖の差
十勝の夏は、内陸部で比較的高温が続き、日によっては最高気温30℃を超える日があります。(最近の最高気温37.8℃(音更町・駒場))冬は、寒冷高気圧(シベリア高気圧)により晴天が続きますが、厳寒期には冷え込みが厳しく-20℃を下回る日もあります。(最近の最低気温-28.3℃(陸別町))そのため、日本一寒い町である「陸別町」では、日本最寒の「しばれフェスティバル」が開催され、全国各地から参加するイベントとなっています。
気温(℃) | 最深積雪 (cm) |
|||
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平均 | 最高 | 最低 | ||
平成29年 | 7.2 | 32.3 | -19.6 | 63 |
平成30年 | 7.2 | 37.1 | -22.1 | 106 |
令和元年 | 7.5 | 34.5 | -21.3 | 33 |
令和2年 | 7.9 | 38.8 | -24.5 | 78 |
令和3年 | 8.1 | 35.8 | -22.4 | 67 |
令和4年 | 8.2 | 37.1 | -21.5 | 62 |
令和5年 | 8.3 | 33.7 | -19.7 | 66 |
(気象庁ホームページより)
5. 広大な風景
十勝は、10,831.24km²とほぼ岐阜県に匹敵する面積を有しており、北海道全面積の約13%を占めています。また耕地面積は、2,551 km²(255,100ha)で全国の耕地面積の約5%を占めます。広大な十勝平野で行われる大規模農業は、農家1戸あたりの所有面積が約40haとEUと同様の経営規模をほこっています。
また、広大な十勝平野のパッチワークのような畑作や大規模な牧場の風景等は、十勝のイメージを連想させる景観となっています。
6. フロンティア精神
十勝の開拓は、北海道の他地域が国の官吏である屯田兵によるものとは異なり、明治16(1883)年5月に依田勉三の率いる「晩成社(明治15年1月、現在の静岡県松崎町で結成)」一行27人により行われました。
当初の開墾計画は、政府から土地の無償払い下げを受け、これを15年で開墾しようとするものでしたが、野火やバッタの大群の襲来、かんばつ、冷害など現実は想像を絶する厳しいものでありました。晩成社の事業はほとんどが失敗に終わってしまったものの、これらの功績が未来において花が開くこととなり、十勝農業の近代化への突破口となったのは事実です。1925年(大正14年)、勉三氏は「晩成社には、もうほとんど何も残っておらん。しかし、十勝野は・・・」という最後の言葉を残し、波乱に満ちた72歳の生涯を終えました。
晩成社のフロンティア(開拓)精神は、今の十勝を生きる人たちに受け継がれています。